ミスマッチじんせいをおわらせたい

自分と向き合わず環境や他人へ責任転嫁してきた人間がそれを自覚して始めたぶろくです

大学、協調性と個人の役割

前々から学校は嫌いだったのに、大学へ行くもんだという無意識によって地元の大学へ進学。
他県の大学に憧れを持つも、自分の学力では無理だなと早々に諦めをつけていた。
この時ばかりは、もう姉と同じ学校へ行こうなどとは思わなかった。姉とわたしは全然違うということに気がついたから。(流石に学んだのです)
おそらく初めて少しはマシな決断をすることが出来たと思う。

大学の教授たちは人間だと思えたし、なにより自分の考えと専門分野を持っていた。大学生たちも、かなり自分を持っている人々がわんさといた。高校で戸惑うことは終わっていたし、やはり自分には何かが足りないと思っていたけど、どうすればいいかわからないままだった。
大学生にもなると、自分で自分をプロデュースしている子がたくさんいた。はじめは、洋服やお化粧にずいぶん圧倒されてしまった。
わたしはブスだな。わたしには個性みたいなの何にも無い。どうやったらそんなに輝けるのなんて聞かないし。ただキラキラの同級生が全く別の生き物に思えたし、自分はどうしてこうなんだろうと思っていた。その辺は学年が上がるにつれ、そして偉大なるYou tuberたちのおかげで自己満の域には達しましたので割愛。

わたしはこの大学でとっても大好きなものに出会いました。それは、演劇でした。新入生のための劇を見た時、おそらく生きていて初めて、わたしもやりたいと思えた。わたしにとっては、生まれて初めてのこの気持ちものすごい宝物だったんだね。
マキシマムザホルモンのぶっ生き返すを聞いた時のように身体中の血液が炭酸のように湧いて、なんだこれ!すごいもの見た!わたしもやりたい!!って思った。

そして入部。そのサークルでは先輩たちが優しかった。今思えば、個性を持った人と個性を面白がれる人が良い塩梅にいたのだった。
もちろん、依然としてわたしの振る舞いは独りよがりだったし本当に自己中だったけど、色々なことを通して(事件や目に見えにくい衝突)、協調性とは何か、わたしはどうやって参加するのかということを考え始めるようになった。(他人と比べれば数年遅いと思う、なんだか大人だなと思ってた子はこういうことを考えて行動していたのだろう)
これをなんとか大学3年くらいまでに気付いた。(今となってはまだまだ学べることはあっただろうにと思うくらい、たくさん迷惑をかけたし、うまく行かないことはたくさんあったけど)
わたしは少しずつ、このままじゃダメだ(現状を良い方に変えたい!)と思い、現状とどうすべきかを紙に書くことを覚えた。いい劇を作りたかったから。ああ、色々始めるの遅いけど。
サークルでは、劇ごとに役職が選べたので色々体験できた。中でも役者は、訳もわからず台本を読んでいた1.2年を経てやっと3年にして、台本を読めるようになった。

台本を読むためには、沢山の想像力を使うし、的確に演じるにはそれを言語、非言語で自分なりに表現することが求められる。そして、演出が台本をどう読み込んで、どう演出したいかも理解することも大切。
それを練習で演出の世界とすり合わせていって、ほかの人たちの表現する世界(演技、小道具、舞台、音響、照明)と調和する。本番を迎える。

このことに気付いた時、わたしは今まで散々人の顔色を伺ってきたけど、その人を見ていなかったことに気付いた。わたしは、他人を、自分を観察せずに生きてきた。一体なにを見てきたんだろうと思うほど、わたしは人間を見ていなかった。

他人を観察しようと思ってからは、だいぶ面白い日々になった。
最後の公演には、役者という役割の取り組み方もやっと分かったし、こう取り組もうと思ったことをやっと出来た。ここまで来るのに余計なトラブルとか、迷惑をかけたなぁ。(そして、ようやくここで、以前の自分の傍若無人さを認めたのだった)

大学も入学すれば卒業をするもので。
わたしはまた適当に決めた会社の内定を1社のみ貰ってすぐに就活をやめてしまった。
また、演劇で他人との関わり方を少し勉強できたので、わたしはどこへ行ってもなんとかできる!という謎の自信に包まれていた。あと、社会の事知らなすぎて、逆に舐めてるとこがあったね!

また、同じ失敗を繰り返したね。
リサーチ癖がないのがたたって、また適当に物事を決めてしまったね。
かと言っていきたいところもなかったのだけど。